2013年2月27日水曜日

[CEDEC 2012]自分の“得意”と“役割”を考えてみてくださいカービィやスマブラの生みの親・桜井政博氏

!  桜井氏が高校時代を過ごした,1987?1988年前後は“群雄割拠”とでも言うべき時代だった。  次世代の表現力を持った「PCエンジン」(1987)や「メガドライブ」(1988)が相次いで発売され,ファミコンでは「ドラゴンクエストIII」(1988)が社会現象とも言える空前の大ヒットを記録した。さらに1989年には,これまた大ヒットを記録する「ゲームボーイ」が登場。翌1990年には,ファミコンの後継機「スーパーファミコン」が満を持して発売される。ファミコン発売からここまで,10年を待たずしてこの変化の起こりよう,rmt,改めて振り返ってみると凄まじいものがあるだろう。  そんな状況のなか,「一刻も早く一端のエンジニアになって,早く実践の場に進みたい!」と考えていた桜井氏だったが,高専の授業のあり方には疑問を感じ,早々に普通高校に転入。この頃から,「自分はゲームを作れるのではないか」と思い始め,バイトをしながら(バイト代を注ぎ込んで)ゲームの研究に明け暮れる高校生活を続けていたそうだ。  桜井氏は,  「面白いつまらないは関係なくて,どんどん遊んで,楽しさが生まれる感触を体で感じることが重要だと思いました。ただ,アイデアメモみたいなものはとらなかったですね。血肉となること,呼吸をするように楽しさを感じることが重要だと考えていました」 と当時を振り返る。そして高校卒業後,HAL研究所にゲームデザイナーとして入社を果たす。  なんと新卒でゲームデザイナーという職種の人材募集がかかっていた時代だ。桜井氏は「ラッキーでした。きっとバブルだったんでしょうね。入ってきたばかりの新人にいきなりディレクターを任せるようなことは,なかなか難しかったと思うんですが。ともかく,そのようなことが許されておりました」という。ただ入社後,19歳で「星のカービィ」の企画書を書き,21?22歳でゲームそのものを作り上げたというエピソードは,DQ10 RMT,やはり“ラッキー”だけではあり得ない話だろう。 ゲーム業界人として:桜井氏の仕事の流儀  さて。晴れてゲーム業界入りを果たした桜井氏は,ご存じのように,そこからさまざま有名タイトルの開発に携わる。  講演では「ゲームデザイナーとディレクターの両方を務めた作品のみ紹介する」というスタンスだったのだが,それでも「星のカービィ」シリーズを筆頭に,「大乱闘スマッシュブラザーズ」シリーズ,「メテオス」「そだてて!甲虫王者ムシキング」,そして「新
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